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2009年6月 3日 (水)

ゆるされてる、ということ

ふと、さっき台所仕事をしてて、思い浮かんできたのだけど、
今までわたしが学ぶ中でうけとってきたいちばん大切なものは何かな?
と思ったら、受け入れられ、ゆるされている、という安心感。

色んな先生、色んな友達、色んな人に出会ってきて、
なによりも大きかったのは、そういう体感。

ゆるされている、ということ。

受け入れられている、とうこと。


ゆるされている、というのは、もう少し具体的に言うなら、
失敗する可能性も成功することも同じようにゆるされて、
自分が相手と同じようにありのままで認められている、ということかな。

そして、受け入れられている、というのは、
どんな状態であっても、ここにいいてもいいよ、と
わたしもあなたも存在すること自体に価値があるかどうかじゃなくて、
どうあっても無条件にOKなんだよ、という感じかな。

今まで、わたしたちは、意識的であれ、無意識的であれ、
たくさんの大人(先に生まれてきた人たち)から、
「役に立つ人間だったら生きていていい」とか、
「いい子で言うことを聞いて期待に応えてくれるならここにいていい」とか、
そんなメッセージをたくさん受け取ってきた。

でもね、そんなのはくそくらえー!!なのです。(わー!!!笑)

本来、いのちはそのもので生きていてもいいし、
生きてること自体、宇宙や神さま(?)から存在することをゆるされてる証拠。

わたしは特定の宗教は信じてないけど、やっぱり神さまはいると思ってる。
その感覚が、わたしはアニミズム的なのかもしれないけど、
すべてのいのち、ひとつひとつに宿ってるんじゃないかなと思うのです。

下手したら、細胞ひとつひとつにまで宿ってるとしか思えない。
いのちのメカニズムって、細かいことまでなんてよくわからないけど、
そうとしか思えないことっていっぱいある。

人間って、からだの細胞ひとつひとつが自分を生かそうと頑張ってくれてる。
それは、あの世に逝ってしまうその瞬間まであきらめることなく働いてくれてる。

心臓しかり、脳みそしかり、内臓しかり、骨髄しかり。
あらゆる身体の隅々までが協力し合って、いのちであるわたしを生かしてくれてる。

だとしたら、わたしの心や気分や意識が自分を苦しめては、失礼だなぁって。

身体に失礼なことを、わたしたちはいっぱい覚えてきてしまった。
だとするなら、それをやめたらいいなって。

忙しいからと、トイレを我慢したり、っていうのもそうだし、
かっこいいからと、本当は寒くて死にそうなのに、生足でいるとか(笑)。
慣れきってしまって気づかないこと、きっといっぱいたくさんある。
(かくいうわたしも、まだまだやってることだらけだし。)

だから、ちょっとずつ気づいていったらいい、
自分に無理や嫌なことを強いる癖を。
そして、ちょっとずつやめていったらいい。

そうして、自分との支配関係を手放して、
友情だったり恋愛だったりの信頼関係をつくっていったらいい。

いっぺんにじゃなくて、ちょっとずつ。
そのくらいが、きっとちょうどいい。

生きていくうえで、経済力や生活力がいちばん大事だと教えられてる。
でも、じつは、その前にもっともっと大事なのは、
自分を愛することだったりするのかもしれないな、とこの頃とっても思うのです。

だから、ゆるされてる、受け入れられてる、
という感覚って、すごくすごく大事だと思うのです。

だれかに愛されよう、認められよう、と一生懸命生きてきたならなおさら、
自分自身がいちばんの理解者で協力者でパートナーでいられるように。

自分をゆるせるようになること、受け入れられるようになること。

それが人生のカギなのかな、なんて、この頃思い始めました。

一人で居たり、得意なことのなかでその感覚をつかんで、
それをだんだんとニガテなこと、大変なことの中に持ち込んでいく。

それが生きることのレッスンなのかもしれない。

そう思うと、すこし大変そうなことも仕方ないな、とあきらめて
余計なこだわり過ぎを手放して、大きな流れやチカラにゆだねられる。

だから、わたしがここに生きていること、
どんな自分であってもゆるせるわたしでいられるように。
そうして、まわりもゆるせるように、少しずつ拡げていかれたら。

まずは自分のからだの声を尊重するところから。
それが、自分の声を尊重して生かすことなのかもしれないな、とも思います。

単純がいちばん、
からだがいちばん。
わたしはわたしとなかよしです。

そう言えるように、じっくりいきましょう。

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